くまさんといもさんとゆく。

心の病気、発達障害などありつつ、今日も普通に生きたいと願っています。

徒然なるままに呟き1.

今日は文章が書いてみたくなり、徒然なるままにスマホをタップします。最近、体調が良くなってきました。原因は、30代を懸けて勉強してきた精神保健福祉士試験にやっと合格したことと、少しおとなしくしていたことがありますが、ほかにもあります。

読書(小説、学術書、詩、エッセイさまざま乱読)と、趣味と言えるドラマ鑑賞と、自分で下手なりにお話を書き続けるという作業をしていると、イメージの世界にどっぷり浸かりながら生きられて、すると何故だか現実世界もうまく回りだす感じがするのです。不思議の一言です。

そんな感じって、無意識がよく出るようになったら現実も良くなるということなのかな?などと歩きながら考えました。何だかユング河合隼雄の思想を思い出すので、河合隼雄の著作を何年かぶりに読もうと思いました。

 

私の住んでいる市の市立図書館にはなんと河合隼雄の著作が一冊もない!ので、仕方なく通院のついでに、遠く県立図書館まで足を伸ばし…しかし手に取ったのは著作とは言っても対談の本、河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにゆく』岩波,1996。もう一冊は、谷川俊太郎展で谷川俊太郎河合隼雄の交流が気になっていたので、谷川俊太郎鷲田清一・河合俊雄編『臨床家  河合隼雄』岩波,2009。

 

村上春樹河合隼雄に会いにゆく』はめっぽう面白く、何度か読み返しました。村上春樹は特に暴力的、性的な描写が生々しいところがあって、少し苦手なのですが、あれも自己の暴力性を昇華させる、作者にとって必要な作業なのだなと、河合隼雄の指摘で気づきました。そして、小説家と心理療法家の仕事の類似点、物語(物語る、という行為)と箱庭療法の酷似していることに改めて気づかされました。大きく見れば、人は誰もが「生きる」ということで壮大な作品を作り上げている、とも言えるのですが。

ここで言いたいのは、創作する、表現する、という行為が、心理的な癒しにつながる、ということです。村上春樹も本書で言っていました。「それは非常にスポンテイニアスな物語でなければいけない。これがこうなって、こうなって、と計画的につくるというのは、ぼくにとってなんの意味もない。」

前に職業作家というのは非常につらいものだ、と言っていたのをどこかで読んでいたので、てっきり緻密に計算されたお話を組み立てるタイプなのかなと勝手に思っていましたが、そうじゃなかった。スポンテイニアスな物語をつくるのは、自己を治癒するため、とも。村上春樹は自分を治癒するために物語を書いている…何だか嬉しくなりました。無意識を遊ばせ表現し、それで現実のほうも生きられるようになり、世界と対峙していく。河合隼雄は、紫式部だって自分を治癒するために源氏物語を書いたと思いますよ、と言っていました。こういったことは、箱庭にまさに通じるものです。

 

ところで、私は20代の後半、箱庭療法を2年ほど受けていました。初めて箱庭作品を作ったとき、楽しくて楽しくて。先生にも「無意識がよく出ていますよ」なんて言われてびっくりしたり。それから帰郷し、箱庭から遠ざかって、ふつうに精神科で薬物療法を受け、それだけではダメでしたのでカウンセリングにも通いました。そのカウンセリング通いは長かったのですが、認知行動療法をやるカウンセリングルームだったので、認知行動療法をしばらくやったあと、何かズレを感じて行かなくなりました。認知行動療法を否定する気はないですし、合う人には合うのではないでしょうか。ただ、私には「何だか科学的に、不適切な行動・思考を直されている感じ」というふうに感じられてならなかったのです。箱庭を経験した私には、無意識がおいてけぼりにされている、無意識はこんなに私の中で暴れているのに、と思えてしまいました。

それで、箱庭をやるドクターのいる精神科に移って今に至るのですが、このドクターが大変忙しい方で、箱庭に話を振っても、やる気配もなく5分診療です。たぶん、それで私はお話を作るようになったのかなと思います。すべては自己の治癒のため。お話を書くと本当に楽しくて、次々とイメージを遊ばせていると勝手につながって、小説のようなものが自然と形づくられる、という感じです。本当に救われる作業です。俳句でも詩でもいい。音楽でも絵でも。無意識を遊ばせること、表現してみることは、自分を救ってくれます。浮かぶものがあったら、形にしてみるのもおすすめです。自分の中から出てきたものやイメージに自分が癒される、というのは本当に不思議なことですが、もしかしたら誰もが無意識のうちに物語を秘めているのかもしれません。意識に出るものなんてほんの氷山の一角で、無意識の世界が未曾有に広がって、生を支えているんだと思います。

 

さて、イメージのつながり、で言うと、この一年間大変はまっているテレビドラマ作品があります。坂元裕二脚本の「カルテット」(TBS系,2017)です。はじめから確かに面白かったですが、一度では気づけないこともあり、録画して何度も見ることで、伏線や、台詞や目線や小道具の意味にじわじわ気づかされ、ぞわぞわと楽しくなりました。スロースターターでなかなか慣れないタチなので、みんなが忘れかけた頃にはまる癖もあります。でもこの作品は、わりとたくさんの人が、今でもはまっているのではないでしょうか?

 

伏線や謎解きも重要だとは思うんですが、私はイメージの連鎖がたまらなく楽しめました。例えば「夢」→「片思い(=「片思いは一人で見る夢」という台詞より)」から、「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるでしょう」と「夢」ひいては「片思い」の肯定。その筆致がたまらなく優しいんです。成就することだけが幸せではない、という。昔古典の授業で「あはれ」について語って下さったおじいさんの先生を思い出します。「叶うことだけが良いことではないのです。叶わない恋も、恋です」と。

 

すずめちゃんの回(3話)「(嘘つき)魔法少女」→見えないものが見える→稲川淳二のラジオ→チェロをおしえてくれた実在するのかわからないおじいさん→8話の白ひげのおじいさん、などなど。イメージの連鎖が止めどなくあふれています。

 

あれだけ緻密に構成されたお話ですが、作者はやっぱりスポンテイニアスに物語をつくっているのではないか、と私は思えてなりません。そのイメージのつながっていくさまが、実に癒しに満ちていて、楽しそうだから。それを、自分の中のイメージの連鎖にある程度任せて、物語ったのではないでしょうか。それが人間の欠けている部分、みっともない部分を優しく包み込むようなお話になっているのは、作者がそういう優しさを内包している、もしくは人を信じたい人だから、それが無意識に出たのではないか、と思うのです。脚本家だけでなく、作った人たちがそういう「希望」を信じているのではないかな、だからスクリーンから滲み出ているんだ、と私も信じたいのです。

 

物語には力があります。それは自己治癒力とでも言うような。メッセージは、こめなくても自然とこもる。メッセージを伝えようとして作り込むより、スポンテイニアスに物語ることで思いもしなかった自分の無意識に気づき、知らず知らずのうちに癒されている。それをとみに感じるこの頃です。